私たちが何かの達成を目指して頑張ったのに、それが望み通りいかず失敗に終わったとき、いたく失望します。特に若い時代の人生これからだという時の挫折は、心に重くのしかかってきます。時にはその挫折がその人の人生に相当長きに渡って影響することもあります。
この挫折感は、自分が得たいものが得られなかったとか、人生がバラ色になるはずであったのにとか、人生の敗北者になるんじゃないかとかいった思いで心に重くのしかかっかてきます。

こうした人生における挫折感の受け止め方は、人生を狭義にとらえているといっそうつらいものになってきます。
人生はもっと幅広く奥深いという観点に立って失敗を振り返れば、失敗もまた違ったものに見えてきます。
自分の頭脳智で考えた目標であったり、望みであった場合には、そう一つの成功に執着する必要はないのではないでしょうか。
自分の潜在意識の中の見えざる意識が、本当の自分の得るべきもの、進むべき方向を捉えていて、今こうした挫折を味わっていると考えると、また人生も味わい深いものになってきます。
人生の奥には進歩・向上のプログラムが横たわっています。
自分が本来のやるべきこと、本来の望みを達成するには、すぐさまそれが現われてくるとは限りません。多くの場合数多くの体験を積み、数々の勉強や仕事を通してから現われてくるのではないでしょうか。
そうした自分の本当のやるべきこと、本当の望みが現われるまでは、ずいぶんと無駄な人生を生きているようにも見えます。しかし、年を経て振り返ってみますと、
無駄のような人生体験も、今に結びついて繋がっていて何か懐かしいものです。
人生において人は仕事で失敗したり、家庭生活で失敗したり、さまざまなことで悩み苦しむことがありますが、しかし、それらは自分の中から"ほんもの"を出すための過程であるように思えます。
【page topへ】
人生において憂うつ感をもたらす一つに、自分をうまく表現できない、あるいはうまく伝えられないことからくる疎外感があります。
人は表現するように生まれてきています。この表現を妨げられると、人は人生につらさやさまざまな問題を起します。

子供の頃に自由にのびのびと話すことを抑圧されると、吃音になったりしますし、あるいは行為などを抑圧されるとチック症状になったりもします。
このように人は表現を妨げられると、心にも身体にもさまざまな影響をもたらします。
表現が少ないと顔の表情が乏しくなり、明るさが不足してきます。これが人生における憂うつ感の元になります。人は明るい人に寄ってきますし、明るさが人生に積極性をもたらします。
明るく積極的な人生を生きるには、表情豊かになることが一番ですね。
そのためには自分を表現することが大切です。機会をみては自分を語るのです。
自分を語ることは人間本来の欲求ですから、自分の心が悦びます。
特に内面の隠された自分の本心を語ることは、大変必要なことです。心が悦びますと、自然に表情も明るくなってきます。
いつも本心をかくし、その場に合わせた言葉を選んで会話をしていますと、やがて自分の本当の心すらわからなくなります。
こうなりますと一見人とうまくいっているように見えますが、心からの人間関係は生じません。
いつも人づき合いに疲れを感じるようになります。人生にに悦びを感じることも滅多にありません。
傷つくことを恐れず自分の本心を語るのです。そうした会話をしていますと、次第に心の抑圧が放出されます。まさに
話すことは放すことなのです。
【page topへ】
人生の極意は「今」を生きることにあります。
人生は学びの場であり、進歩・向上の場でもあるのですが、そうした高い目標に限らず、例え物欲的な目標の達成を目指しているにしても、大切なのは達成したいと思っている「今」を生かすことではないでしょうか。

「今」しようと思っている時に、「今」したいと思っている時に、その心を押さえつけてしまいますと、その達成しようとするエネルギーは窒息してしまいかねません。
文章を書いていましても、何かインスピレーションのように書きたいことが浮かんでくることがありますが、その時を逃さないで書き始めるか書き留めるかしないと、
今度書こうと思ってもなかなかその時感じたようには思い出せません。四苦八苦して思い出しても、書きたかった味わいが出せません。
これによって考えましても、いっぺん能力が出ようとした時にその機会を逃すと次には能力を出すにも苦労しますし、結果もはかばかしくありません。
ですから自分の実現したい目標達成のためには、「今」の機会にチャレンジすることがとても大切だと言えるわけです。
私たちの話し方教室にも、人前での話し方を上達したいとか、なんとかあがり症を治したいという目標をもっていらしているのですが、大切なのはそう思ってそのチャンスが与えられている「今」なのです。
途中であきらめ、またこの次にしようとか、発表会は私にはまだ無理だからこの次にしようとか思っていると、大切なチャンスを失いかねません。
自分が伸びるには、思い、時、機会が与えられている「今」しかありません。
自分であれこれ考えて、比較検討した上で行うというのは正しいようで正しい知恵ではありません。
まさに優れた人生を生きるための極意は「今」を生かすことに尽きる・・そう思います。
【page topへ】
人生は学びの場であり、進歩・向上の場でもあるのですが、学ぶことや技術的なことは比較的進歩し向上していくのですが、人格の向上となるとなかなか難しいというのが私の実感です。
過去、さまざまな自己啓発の本を読み、知識としてはかなり深く豊かになったのですが、自分の人間性が深く豊かになったのかといえば、はなはだ心もとないのです。私の経験からいえば豊かな知識イコール人格の向上にはなりません。
なぜでしょうか。

世の中にはさまざな観点から書かれた自己啓発の書がたくさんあります。人生を学ぶことには事欠きません。
学ぶことと人格が向上するということの間には何か違いがあるのでしょうか。大切なのはそこの違いであるような気がします。
学ぶことはどちらかと言うと一人の世界です。もちろん他の人との関わりの中から学ぶこともたくさんありますが、学ぶという行為は自分一人の頭脳作業です。
しかし人格とか人間性とかは他の人との相互的な関係のなかで認識されます。
一人だけの世界にいて自分の人格が向上したということはありえないわけです。
いくらたくさんの書を読み、いろいろな人から優れた話を聞いても、それがただちに人格の向上にならない理由はそこにあります。
人格の向上にとって必要なのは、人との交流のなかでの行為や心のあり方にあると言えます。いくら優れた本を読んでも不平不満の心で生きていた頃には人格は貧しいままでした。
人格とか自分の人間性とかが養われていくのには、とても大切な欠かせないものがあります。それは人の役に立つ、人から喜ばれるような行為のように思えます。
「人」という字もお互いに寄りかかっている姿を現した文字ですね。これは人生を人がお互いに支え合って生きていくことだけではなく、人どうしの内部生命さえ大きく支え合っていることを現していると思います。
自分に対する人の思い(念)が自分の人格や人間性に大きな力を与えていると考えられるのです。自己中心的な人生をおくりながら人格が向上することはあり得ません。
人からの喜びの念、感謝の念がたくさん入る人ほど人格が高きに登るのではないでしょうか。
自分の内部生命の成長は、自分の学びと人からの良き念によってもたらされる・・・これが人格向上の根本原理であると私は思います。
【page topへ】
私たちの人生の心の問題として「不安コンプレックス」があります。
この「不安コンプレックス」は個人によってかなり差がありますが、誰でも大なり小なり抱えています。
「明日はたいせつな日だけど、今晩眠れなかったらどうしよう」とか、「玄関に鍵をかけたはずだけど、でもかけ忘れているかも知れない」
「今は健康だけれども、もし癌にでもなったら」
「夫の帰りが遅いのは、他の女性とデートでもしているんじゃないかしら」
挙げればきりがないほど、こういった不安はそれぞれの人に起こってきます。

たいていの場合、気になるほどの不安にはならないで日常を営んでいるのですが、なかにはこの不安が度を越して強い人もいます。またそれぞれの人生の途上に於いて、誰しも何らかの不安に強くさいなまれることだってあるでしょう。
度を越して強い人は、こうした不安を病的と言えるほど日常に抱えこみます。
こうした人の特徴は、ひとつの不安が去ってもまた次の不安を創り出していきます。決して心は安まりません。何かを達成したら、何かを得たら、環境が変わったら心が安まるのにと思っていても、同じです。
アメリカのアーネスト・ホルムス博士は「何故これらの人々は不安にならなければならないのか明確な理由というものがないのである。われわれが不安に思う事物の大多数は、その不安には何らの関係をももたないのである」と述べています。
いったいどこからこの不安は来るのでしょうか。不安の正体を知るだけでも、少しは心が安まります。
心理学者は
そうした不安は嬰児期又は幼児期において潜在意識に植えつけられた想念の一種の"型"であると説明しています。
大人が子供に対して、「いけません」とか「あなたは馬鹿ね」「始末におえない子だね」「そんなことをすると鬼にさらわれるよ」とか言う禁止的、恐怖的な言葉を度々聞かせられているうちに
幼い子供の心にそれが真実として印象づけられることになります。周りの大人が気をつけていても、テレビを通して、悲惨なニュースやワイドショウが映像とともに幼い心に暗く恐ろしい印象を刻みこんでいきます。
これが不安を生じさせる想念の"型"になると言われています。私たちが今日、
不安を感じるのはこの想念の"型"があるために、無意識のうちにこの"型"が作用し、何とはなしに不安を創り出しているそうです。
現代はさらに不安症候群の親が、わが子の心や行為を心配でしばります。こうしてある人は、平穏な人生においても、最も正常な生活環境においてさえも恐怖に満たされたものとなります。こうした精神状態が極度に達すると『不安ノイローゼ』になります。
この不安感情はいかにしたら取り除くことが出来るのでしょうか。
ここにおいて潜在意識の不安感情を放出し、あるいは記憶を修正する技法が必要となってきます。
【page topへ】
人生においては様々なことが起こりますが、中には起こって欲しくない事まで起こります。
人前で話しをしたりする時に起きる「あがり症」もそうですね。中には万引きをしたことが主人に知れたら大変だと思っていながら、ついつい万引きをする主婦もいると聞きます。
夫婦喧嘩でもそうです。「こんな喧嘩はもうすまい」と思っていながら、再び喧嘩をして嫌な思いをしたことのある人は私だけではないでしょう。
何故、こうした望まない出来事が起こってくるのでしょうか。

人生に心ならずも起こってくるこうした出来事は "観念の強制力" によると言われています。
これはその人が心のなかに思い描いた想像が、想像する方向へ引っ張るのです。「私はあがるに違いない」とあがっている自分を想像するから、その自分の思い描いたとおりにあがるというわけです。これを "観念の強制力" といいます。
私たちの人生上に、自分の好ましくないもの、幸福を阻害するものを持ちきたすのは、
実にこの "観念の強制力" なのです。この "観念の強制力" の中で、一番私たちの幸せを邪魔するのは恐怖心と言われています。
恐怖を心に想像すればするほど恐怖することを引っ張ります。高い所にいて落っこちると想像すればするほどその人は落ちるでしょう。何がその人を落ちる方へ導くのでしょう。それはその人の落ちるという想像です。
私たちの想像力が、悪の存在、不幸の存在、災難の存在、罰の存在、病気の存在・・こうした暗い方面の思いにとらわれると、自分の人生にとってどれだけマイナスでしょう。私たちの生命は萎縮して、伸び 々 とした人生の幸福を阻害します。
特に幼い頃に印象された思い、想像はその人の一生に影響すると言われています。
私たちののこうした恐怖心は、その元をたどるとき、幼き頃に大人から教えられたお化けや、悪魔や、悪しき人の存在の恐ろしい印象に端を発しているということが精神分析で述べられています。
人生に起こるべき明るいことより、暗い方面の存在をより多く想像する時、私たちの人生に害をなすことになります。
【page topへ】
私たちは言葉の力をもっともっと理解する必要があります。
特に大人は人生経験から来る言葉を使い慣れていますから、言葉そのものの意味より、言葉に付帯する雰囲気を話すことが結構あります。
例えば子どもに「おまえはバカだな」と言う場合でも、言うほうは日常の慣れ言葉として軽く言っている場合がほとんどです。でも考えて見てください。まだ人生経験の少ない子どもが「おまえはバカだ」と言われて、
その意味する内容の微妙な背景を理解することができるでしょうか。

大人はよく謙遜をして、人前でわが子を「この子はわがままな子でとてもダメな子なんです」とか「この子はバカな子でして」また「いえ、うちの子はブスなんですよ」などと言います。
言っている大人は「これは人様に謙遜して言っているだけで、ほんとは違うのよ」と思っているのでしょうが、聞いている子どもにはそんな大人の事情など知るはずもありません。
だいいち
子どもは自分のことは自分ではわかりません。
まわりの大人が自分に対して述べる言葉で自分を判断します。能力も評価もまだ白紙なのです。大人の言葉、特に親や先生の自分に向けられる言葉には真剣そのものです。
その時ほめられた子どもは、うれしくてうれしくて自信満々になるでしょう。が・・、先に述べたような言葉を言われた子どもの心を思いやってください。
子どもの心は塞がります。
子どもの頭の中では、ダメな自分を想像し、自分の欠点をつかみ、自信がメチャメチャになります。その言葉の力でその子どもの表情には無力な気落ちした雰囲気がつきまとい、伸び伸びとした子ども本来の力が失われていきます。
これが言葉の力です。子どもの人生に計り知れない影響を与えます。
幼児からの自信はその子の人生を決します。
【page topへ】
人間は社会に住んでいるように見えますが、実のところは自分の心の中に住んでいます。トラウマを抱えて苦しい人生を過ごしている方は、トラウマが創りだしている心の世界に住んでいるから苦しいのです。
以前、新聞の人生相談に「認知症の父を看病している時、父の預金から何がしかのお金を使ったことが、父亡き後とてもつらい。」という内容の相談が載っていたのですが、これなども人によっては忘れてしまっているほどの出来事なのに、
この人は自分の罪の意識が創り出した心に縛られ、社会的には罪にも当てはまらないのに、心の世界で苦しんでいるのです。

これが人生の一面です。心は自分の都合でさまざまな人生模様を創りだします。それは一種の幻想世界です。
話し方教室のみなさんと接していますと、このことが実によくわかります。話し方に問題はなく、話もうまいのに当の本人は話し方が苦手でとてもつらいと思っている方がかなり多いのです。あがり症で苦しむ人もみなこの自分で創りだした幻想に縛られていると言えます。
客観的に見た自分ではなく、自分の思い込みの世界にいて判断しているのです。
全ての人がこうした自分勝手に想い描いた幻想世界に住んでいる、あるいは人生模様を生きていると言っても過言ではないでしょう。
自分を客観的に知るためには人間関係がとても大切です。
人は自分を他の誰かに語ることで、自分を知るのです。人に話して反射して帰ってくる反応で、直感的にその人の見た自分を知ることになります。より自分を知るためにはより多くの人に自分を語る必要があります。
話す相手が親密な人ほどいいですね。本音が帰ってきますから。こうした意味でも親友が必要ですし、しっかり会話の出来る夫婦関係が大切です。
人生は表現の世界です。心が何かに縛られていると狭い世界を生きることになります。自分を社会に映して心を広げるとそれだけ広い世界に住むことになります。
自分に内在する高い能力の自分を認めれば、それだけ優れた人生を生きることになります。
【page topへ】
自分があがり症ですと、人生において大変な損失をしています。
人間はどんなに才能があり、優れた活動をしていても人前での話し方が苦手ですと、根本的な自信がもてません。だいいち人前に出れないという足かせで活動さえも支障をきたすのです。

話し方が苦手な人は、いつも人前に出たり、話したりする場から逃げることになります。これが人として惨めなのです。
たいていの人は年をとったら何とかなるだろうと思っていますが、年をとっても変わりません。長い間、人前での話し方を避けていたのですから、いっそう億劫になり、自分の『あがり症』
を墓場まで持っていくことになります。
人前で臆せず話せる人が立派であるというわけではありませんが、でも人としてひとつのあるべき姿です。人前で落ち着いて話が出来るようになると、人は変わります。自信がつくのは勿論のこと、自分が強くなります。そして人生に積極的になるのです。
人前での話し方も、日常での人間関係のありかたも根底ではつながっています。不思議なことに人前で話せるようになりますと、日常での人間関係にも変化が起こります。自信のなせるワザです。
この自信は人生まで変えます。私どもの話し方教室の掲示板への投稿です。
こんにちは。私は以前、○○教室に通っていたMです。このサイトを見つけて、とてもうれしくなりました。実は何の連絡もせずに行かなくなって、もう3年位かな。(申し訳なく思ってます...)でも、川上先生にはとても感謝しているんです。本当にこの教室に通って私の人生は変わった気がします。(一部省略)
学校の役員や仕事もしていて、忙しい日々を送っています。以前の私には考えられないことです。いろいろなことに前向きに挑戦してみようと思うようになったのは話し方教室に通ったおかげだと思っています。ありがとうございます。今は忙しくて教室に通えませんが、またいつか参加したいと思っています。
人前での話し方を身につけることは、人生にとっての一大事なのです。
【page topへ】
私たちの人生は自分の内部からのパワーの働きにより導かれています。

ある女性なのですが、初めてのPTA の役員を小学校6年生の学級代表として務めることになったのです。引き受けた時には6年生の学級代表は卒業式で保護者代表としての挨拶をしなければならないことを知らなかったのです。とてもあがり症のその人は、もしそのことを知っていたらとても役員など
引き受けなかったと嘆いていました。その人にとってとても大きな困難が与えられたのです。
でもその人に出来ない困難は来ません。人生はすべてその人の心(隠された内部の心も含めて)の影として起こってきます。良きにつけ悪しきにつけ、起こる出来事はその人の業の流転としての現われでもありますが、
困難のなかにはその人の内部知性(心深くの良心とも言うべきもの)
からの導きのものもあります。「伸びよ」という内部パワーからのささやきでもあるのです。
起こってきたところの困難から逃げないで、真正面から取り組んでいけばそれなりの結果がもたらされます。その時、人は成長します。具体的な人生上の成長でもあり、人格としての成長でもあります。
その女性は背水の陣を敷き大役を果たしました。終わったその人の充実感は
何ものにも代え難いものだったでしょう。
人は進歩し向上するために生きています。困難はそのためのチャンスなのではないでしょうか。私たちは困難から逃げることも出来ますし、きちんと向き合うことも出来ます。
困難に向き合えば、私たちのいのちには推進力がありますから、成長と変容がもたらされます。自己の情熱やパワーを実現したいという思いを起せば、いのちの推進力が
私たちの人生に悦びをもたらしてくれるでしょう。