人が生き生きとして、自信にあふれた人生を過ごすためには、人前で話せる自分であることが不可欠です。
他にどんなに優れた才能を持っていても、人前で話さなければならない場をいつも避けているようでは根底に自信が持てません。
何か自分に卑小さを感じ、なんとなく惨めなものです。私たちの教室にはけっこう高齢の方がいらっしゃいます。中には死ぬまでにはなんとしても治したいから来たと言う方もいらっしゃるほどです。

話し方は人生に大きな影響を与えているのがよくわかります。
こうしたあがり症の問題だけではなく、私たちが毎日使っている日常会話やビジネス会話なども人生にとても大切な役割をしています。むしろたまにしか無い人前での話し方よりはるかに大切で大きな働きだと言えます。
何げない日常の話し方一つで人間関係を豊かにしたり、壊したりさまざまな人生を創っていきます。
自分の口から発する言葉や話し方が、自分の人生を創っているといっても過言ではない位です。
ところが私たちはそんなに大切な言葉や話し方をあまりにも無造作に使っていませんか。人間関係におけるトラブルや悩みには無造作な話し方に起因するものも少なくないはずです。
会話や話し方は誰でも行っています。一見皆同じような話し方をしているように見えますが、みな同じではありません。見栄や対面にとらわれ、心に構えて話をしていたり、ウソが含まれていたり、中には自分を大きく見せようとして、人を見下して話をしている人もいます。
大切なのは心の交流です。
日常の会話や話し方で、自分や相手の思いや気持、考えが素直に相互に伝われば最高ですね。こうした会話や話し方は心の持ち方、生き方に深く関わってきます。まさに人生は学びの場です。
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人生は表現の場ですね。絵を描くのも、ダンスを踊るのも、スポーツに励むのも、仕事に精を出すのも、子育てだって、夫婦関係だって何もかもすべてが自分を表現しているのが人生です。
ですから自分をどう表現するかが、私たちの人生にとってとても大切なことだということになります。ここでは話し方による自分の表現のしかたについて考えてみようと思います。

私たちは幼児期には一様に自分を素直に表現します。自分の思いをそのまま表現します。しかし、成長するにつれてさまざまな人間関係、特に父母との関わりによって自分の気持や思いの話し方、表現の仕方がそれぞれ変化していきます。
素直に自分の気持や考えを話す人、ひねくれた話し方をする人、強情な人、ウソをつく人などさまざまに自分を表現するようになります。そうしたお互いの表現の入り乱れる日常の中で、心やさしく調和に満ちた世界が現われたり、傷つけあう苦しい不調和な世界や、あるいは孤独な世界などを創り出しています。
今自分の住んでいる世界を変えたかったら、自分の話し方を変える必要があります。
例えば自分さえ言いたいことを我慢すれば人づき合いもうまくいくんだからと思っている人もいます。こういう人は自分の言いたいことをあまり表現しないという話し方を習慣的に行いますが、その結果あまり人からは嫌われることはありませんが、充足感のある人づき合いはなく、疲れた感じの人生を過ごすことになります。
反対に自己主張が強くて周りと軋轢を起したり、他の人に負担を強いる人もいます。あるいは見栄とかプライドに心がとらえられてしまっている人の話し方も、知らず知らずに他の人に不快感を与えています。ですから心からの悦びの付き合いを知ることはあまりありません。
孤独な人は他の人が自分に冷たいのではなく、自分が人を受け入れていないのだという側面を知り、人に優しくしてあげたり、優しい言葉をかけてみる話し方に変えたらどうでしょう。
私たちが生き生きとした悦びの人生を表現するには、今迄の人生で積み上げてきた中の心の構え、身勝手な思いなど雑多なものを取り除いていくことが必要になってきます。
そしてありのままの自分を語る、こうした話し方が自分を変え、人生を変えます。
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私たちは何故一生懸命立派な絵を描こうとし、すぐれた踊り手になろうとし、立派な記録を出すスポーツマンになろうと努力をしているのでしょうか。
それはきっとそうせざるを得ない内からの催しがあるからに違いないと思うのです。
そうした高い心の催しに反して、物質的な欲望、愛欲的な欲望に心がとらえられ、そうした欲望を満足させることに躍起になっている時は、なぜか自分を評価出来ない思いがします。またそうした人生を送っていますと、さまざまな軋轢や、男女間の愛欲の葛藤などでクタクタになってしまいます。
直感的に人生の真の目的は、物質的、官能的なところには無いということがわかります。
私たちはいくつになっても何故学ぶのでしょうか。それは内から催してくる向上心による以外考えられません。人はいくつになっても自分を向上させたいのです。自分という人格を磨き、進歩させたいという人間本来の心の導きなのでしょう。
これこそ人生の目的なのではないでしょうか。私たちがいろいろなことに挑戦したり、すばらしい人間関係を築こうとしたり、上手に歌えるようになろうとするのもみんなこの人格の向上、進歩のための手段に過ぎないのです。
人生の目的は、自分に内在する一層高きもの、価値あるものを求め、表現し、進歩向上していくことにあると考えられます。
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人は生まれながらの生活環境の中で、それぞれ人生模様を展開していくのですが、それは "心の法則" にしたがって展開されていくと言われています。
それは自分の心の中で密かにめぐらされた思いが、条件が整った時に行いとなって現われるという法則です。
私たちの人生は、心という工場で創り出されているとも言えます。
大地に蒔いた種は、水分、陽などの条件が整った時に芽を出します。私たちも意識的にしろ、無意識的にしろ思いという種を心の大地に蒔いています。私たちが人生において体験するところの喜びも苦しみも、この自分の蒔いた種の結果として受け取っていることになります。

ここで言う思いとは、表情(しぐさ)、心に思い描いた想い、感情、口から出されたことばなどの表現されたものをいいます。
いつも人生や人間関係の汚れた面や悪いところを観たり、思いをめぐらしていますと、暗く卑しい人生を生きることになり、正しい思いを選んで生活をしている人は、悦びと幸せな人生を手にすることになるわけです。
人間は全くの自由です。自分がどう表現するかで、自分の人生や人格を創りあげることが出来るのですから。
こうした自分の生き様が蒔いた種は、自分の人生に現われるだけだはなしに、わが子の人生にも大きく影響を与えるとも言われています。
例えば子どもが年頃になっての異性との品行なども、純然たる子どもの人格によるものだけではなしに、
その子の幼い頃の父母の品行を、表面の意識では憶えていなくても、無意識的に記憶していて、父や母の品行をなぞるそうです。
これを業の流転といいます。ただ親の悪い念が蓄積されているからと言って、子どもが必ず悪くなるとは限りません。「因」があってもそれを具象化する「縁」がなければ、(種があっても、条件が整わなければ)同じようには現われません。
そうした悪しき「縁」を起さないためにも、
自分の現す表情やこころ、ことばがとても大切になってきます。
私たちの人生には様々な段階があり、様々な人格の影響を受けて生きています。でも人生を創り出す法則を自ら体感し、より正しく表情・こころ・ことばをコントロールする道を歩み始めれば、自らの人生の正しき設計者となるでしょう。
「扉はそれを叩くものに開かれる」
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人生を損なういろいろな要因の中で、私たちが何げなく見逃しているとても大きな要因があります。それは
自分の心の弱さです。
自分の心の弱さが自分の人生にとってとても大きくマイナスをもたらしていたのに気づいたのは六十歳を過ぎてからでした。
人生の豊かさは自分の生命力や生活力などによってもたらされますが、その生命力や生活力は、いろいろな人、特に自分と深いつながりのある人たちとの交流によって支えられ創られてもいるのです。
ところが人は自分の嫌いな人や苦手な人とのつき合いは避けるようにします。
それは自分の弱さからそうしているのです。しかしこのような不十分な生き方は、何か欠けた生き方です。こうした欠けた生き方が、自分の生命力や生活力を損ね、充分でない不足の人生を創出します。
よくよく見ますとそれは自分の心の弱さから出ています。
また
弱さは自分の人生の飛躍の芽まで自ら摘み取っています。
私たちの話し方教室で時々簡単な発表会をするのですが、かなりの人が発表会を避けています。一二度避けるともうほとんど参加出来なくなります。初めに使う勇気より、もっと大きな勇気を必要とするからです。
結果、教室を止めていくことになります。これも自分の心の弱さが招いた結果です。自分があがり症を克服し、飛躍していく機会を自分の心の弱さのために、みすみす見逃していることになります。これはその人の人生にとって取り返しのつかないミスです。
そのままでも自分の日常は変わらないですから、あれが自分にとっての大きな飛躍の機会であったとは気がつかないのです。
こうした生き方は気づかないだけで人生の随所にあるんではないでしょうか。
自分の人生で得るべき豊かさ、飛躍を弱さ故におびただしく失っているのかも知れません。
まさに心の弱さ・・それは人生の敵です。
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人生を味わい深く、楽しく過ごすためには、二つの時間を持つことが大切なように思われます。
一つは、連れ立って歩んでいけるつれあい、友達、仲間を持つことですね。
その中でも一番素晴らしいのは夫婦です。人生を共に生きてきた歴史を持てばもつほど、ゆるぎない信頼関係がありますし、何よりも自分をさらけ出していられる最も心の落ち着ける相手です。
この夫婦関係がうまくいっていないと、人生なかなか楽しくありません。他で心を遊ばせて楽しんでいるようでも、奥底の心をごまかせません。
夫婦で共に生きる楽しさ、味わいの基本は会話です。私たち夫婦には会話がありませんという方が時々いらっしゃいますが、つらいでしょうね。
まず、自分の話を聞いてもらうことより、相手の話を聞いてあげようとすることが先です。
相手の話を引き出す話し方を心がけたらいいと思います。
さらに人生を楽しく味わい深いものにするには、夫婦以外の仲間作りも欠かせません。自分と気の合う人、好きな人と人生を共有し、心の交流をする、これも至福です。

もう一つの大切な時間は自分ひとりの時間です。
孤独であることもそう捨てたものではありません。本を読んだり、音楽を聴いたりなどは一人に限ります。また、人生を考え、深い思索をするのには一人の時間を持つことが欠かせません。
人生いつも二つの時間を持てるとは限りません。今、孤独の人は何も人生を悲観的に考えることはありません。私もどちらかというと孤独な人生でした。
でもその頃に培ってきた知識や思索が今大きく役にたっています。孤独な人は、今貴重な時間が与えられていると思い、一人の時間を楽しむようにプラスにとらえることがとても大切です。
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私たちは自分の容貌に欠点があったり、自分に何か足りないものがあったりすると、悩んだりコンプレックスを持ったりします。
自分の身体や性格的なものでも満足でないのに、まして自分の人生となると、不完全で不満足だらけです。一人として自分の人生は完璧であったと言える人はいないでしょう。

全ての人がそうであるのに、私たちは自分の人生や人間性の問題点をつかんでは悩み苦しみます。なんだか不思議ですね。欠点や不足があって当たり前なのに、時には些細な欠点にさえもつらく苦しい思いをします。
きっと人間には完璧でありたいという内からの強い催しが働いているのではないかと思います。
この内からの働きが自分に努力をさせ向上心を持たせているのでしょう。
実のところ私たちは全てに優れた人よりもどこかに欠点を持ち、コンプレックスを抱えている人のほうに親しみを感じます。茶器でも非のうちどころの無い完璧な形をした物より、手作りの少し形のくずれたものの方に味わいを感じます。
私たちが生きているこの世界では、不完全の面白さ、不完全の味わい深さがあればこそ素晴らしいと思うのです。
また不完全であるが故に優れた価値を有つことだってあります。『五体不満足』の乙武洋匡さん、あるいは『スケボーに乗った天使』のアメリカのケニー・イースターディさん、古くはヘレン・ケラー女史等、
こうした人たちは五体満足の私たちより大きな力をもって、人びとに勇気と力を与えてくれます。
私たちの人生にはより完璧でありたいと思うが故に、一生懸命がんばる生き方と、自分の人生や人間性の不完全さを赦し受け入れるという生き方の両輪があってこそ、奥ゆかしく素晴らしいと思えます。
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さまざまな自己啓発の本などを読んでいますと、深く高きに救われて行った人々は、長きにわたり苦悩の人生を歩んでいた人たちであることがわかります。
生まれながら良き両親に恵まれ、そこそこに幸せである人より、恵まれない環境や、不幸な家庭の中で育ち、
苦悶の人生を歩んでいる人にとっては、幸せに生きる術を求めることは自分の人生を賭けたとても大切なことだからです。
でも、その苦悶の末につかんだ幸せはとても深く、大きく、独自の幸せの世界を創りあげています。以前、TVのある番組でもこうした人々の人生をとりあげていたこともありましたね。

苦しみの人生を歩んでいる人はたくさんいます。
その人たち全てが幸せの境涯にたどりつくかというとそうではありません。そうした幸せの境涯へたどりつく人は、血ヘドを吐くような苦しみの人生の中にいながらでも、真摯にまっとうに真実なるものを求め続けた人たちだろうと思います。
そしてその人たちに共通して言えることは、人生のなかで、
良き導きの人との出会い、あるいは良き導きの書との出会いがあったからと言えるように思えます。
人生のなかの価値あるもの、真実なるものはそう簡単には手に入らないようなしくみになっているのかも知れません。ダイヤモンドはそこいらの道端には落っこちていません。地中深くや幽山の谷深くに埋蔵されています。人生のダイヤモンドも、深い探求の末に手にするものなのかも知れません。
今、苦悶の人生を歩んでいる人も幸せをあきらめるにはおよびません。
今起こっている自分をとりまく環境、人間関係などのさまざまな中に、何かを学び、何かを得ることに心を振り向けましょう。そうした今現在の生き方の積み重ねが、やがて人生の糧となりほんとうの幸せに導かれるものと信じます。